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先人達の知恵と汗

古くから伝わる先人たちの知恵や努力、教えをはじめ、南大隅の歴史を紹介します。

お茶亭跡・島津斉彬公植松の碑

取材日:2013年12月16日(月)

錦江町田代「花瀬」は、薩摩藩島津家累代藩主のお気に入りの場所であった。

 江戸時代に薩摩藩が領内各地の地理歴史を文書にした「三国名勝図会」には、当時の花瀬の様子が挿絵入りで細かく記されている。今も変わらぬ花瀬川の石畳や、四季折々の花々が当時の人々の心を癒していたようだ。

お茶亭跡_文中1_丸に十の字「島津の家紋」が入ったお茶亭跡.JPGのサムネール画像

 「三国名勝図会」によると、19代光久公、24代重年公、28代斉彬公が、たびたび「花瀬出張い(はなぜでばい)」と称して来遊し、お供の人達と花瀬の景観を楽しみながらの宴席をもうけていた事がわかる。その名残りが、花瀬橋のたもとに「お茶亭跡」として残っている。

お茶亭跡_文中2_14の炉の跡.JPGのサムネール画像

 14個もの釜の跡があることから、大人数のための湯沸しや煮炊きが行われていたのではないだろうか。美しい景色の中、歌や踊りで盛大ににぎわう殿様たちの様子が目に浮かぶ。「本藩の人は花瀬の素晴らしい景色を知らない者はない。」とあることからも、昔から花瀬は人気の景勝地であったのだ。かの篤姫も訪れた、ともいわれている。

 

お茶亭跡_文中3_碑には「島津斉彬公御手植松」と書かれている.JPG 特に斉彬公は花瀬を気に入り、愛していたと言い伝えられている。1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航した年に、大隅半島を巡検した斉彬公はこのお茶亭で休み、記念にと、たいへん立派な松を近くに植えたそうだ。大正10年、当時の川原青年団はこの事を永く後世に伝えようと「島津斉彬公御手植松(しまづなりあきらこうおてうえまつ)」と書かれた碑と、斉彬公が城を出てから垂水・新城・花岡・大根占を回り5日目に花瀬に入ったことなどが書かれた碑と、二つの記念碑を建てた。

 昭和48年、たいへん残念な事に、松は害虫によって枯死してしまった。その後、花瀬が県立自然公園に指定された記念樹として、植松記念碑の横に植えられたヤマモモが、花瀬川を見下ろすように静かに立っている。

 

  • 「花瀬まつり」での一コマ。お茶亭跡で野点。

    お茶亭跡・島津斉彬公植松の碑

  • 歴史ある場所で風流な催し。

    お茶亭跡・島津斉彬公植松の碑

  • 湯沸しや煮炊きをした炉の跡がしっかりと残る。

    お茶亭跡・島津斉彬公植松の碑

  • 三国名勝図会に描かれた花瀬。

    お茶亭跡・島津斉彬公植松の碑

地図

【住所】

錦江町田代川原4270 (花瀬地区)

ギャラリー

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